神を待つ松
「松」は「神を待つ木」ということで「マツ」という名前がついたという説もある。日本では樹木が神の依り代とされることが多く、常緑樹の松は不老不死のシンボルでもある。お正月の門松も歳神さまへの目印として飾る。
自然の中を歩いている時、自分は日本人だなと感じる。非常に大雑把な分け方をすれば、西洋では「自然は神がおつくりになった」という考えが根底にある。日本では「自然の中に神がいる」または「自然そのものが神」という考えがある。もちろん考え方は個々人でも違うし、どちらが正解というものではない。
日本では山自体が御神体だったり、山に御神木があったり、そのうえ色々な神が色々なところにいるのだ。そして神のつかいとしての動物(シカやクマなど)もいる。
しばらく高い山には行っていないけど、山に入る時に手を合わせ、道端のお地蔵さんや道祖神に手を合わせ、御神木に敬服し、シカと目が合えば何か見透かされて時が止まったような感じになり、山頂に神社があればそこで改めて手を合わせる、といったふうに、神様だらけの自然を行く感じが自分にはしっくり来る。
去来信仰(春には山の神が田に降りてきて田の神となり、秋には山へ帰り山の神になるというもの)もほのぼのとした神が想像されて良い。そして、山の神は人々の仕事によって姿を変える。狩猟を行う人にとっての山の神は「野獣を支配している神」なので、獲物を仕留めるとその一部をお供えにする(ケボカイやモチグシなど)。木こり(杣人)にとっての山の神は「樹木を司る神」なので、木を切る前に許してもらい、切ったら同じ木を植えて償う(マサカリダテやトブサダテなど)。農耕が盛んであった日本にとって多くの場合は、山の神は「農耕神」であり、農作物の豊凶を司る神。日々の生業の中に、自分より大きな大きなものを感じつつ、それに畏怖と親しみを持ちながら暮らしていた頃の日本は、きっと貧しくても豊かだったんだろうと想像する。昨今では、宮本常一の「忘れられた日本人」を読んでいる時や、東北地方の木彫りの民間仏を見た時などに、そんな気持ちが強くなる。
語源メモ:松=神を待つ / 森=籠る(神々が籠るところ) / 榊=境の木(神と人間の境にある木)または栄える木 / 樒(しきみ)=悪しき実(実に毒アリ。昔は土葬だったので、動物よけに墓地によく植えられる)。
樒については、冬でも森の中でアオキと同じくらい緑緑している。私がよく行く場所で見るのは低木のツルシキミまたはミヤマシキミ。冬は赤い実が目立ち、食べてみたくなってしまう(←ダメです)。写真はツルシキミ、だと思う。夏の暑さで葉が少しやられているが、既に実が付いている。
※これまでの投稿もだけれど、今日書いている内容、全部森林インストラクター試験に出る範囲。なので勉強と個人の雑感を兼ねてのメモ。森林と林業の二科目の中だけでも樹木、植物、鳥、昆虫、土壌、木材・・・さらにあと二科目。膨大な内容。園芸品種は出ないのが救い。改めて、ただテキストを勉強すれば良いという試験ではないと感じる。年間、かなりの回数の自然歩きをしているけど、自分の知識不足が思い知らされます。