2026年8月のメモ「飛べなかった蝉と八月」


(こちらの ”forest_memo”は森林インストラクターの自己研鑽を兼ねて毎月更新している森のブログです。版画のほうはトップページからご覧ください。)
毎夏沢山の蝉の抜け殻を見ます。この夏も沢山。
写真上はアブラゼミ?の抜け殻、下はツクツクボウシの抜け殻です。
蝉は完全変体、不完全変体のどちらでしょうか。羽根も出るし、完全変体なのでは?と思いそうですが、蝉は蛹(さなぎ)にはならないので不完全変体です。蛹になる=完全変体、蛹にならない=不完全変体、とすると覚えやすいですね。とはいえ必ずしもそれで完全に分けられず、試験勉強では少し苦労しました。
ところで蝉はミンミン鳴く前、それ以前に抜け殻になる前は一体どこで何をしているのだろう・・と思ったことはありませんか?
蝉は木の枝に卵を産みます。それが一年後に孵化し、幼虫が木の枝を降りて土に潜り、数年を過ごした後やがて地上に出るらしいです。らしい、としか言えないのが残念ですが、実際、蝉の卵も卵から孵って土に潜っていく幼虫の姿も私は見たことがありません。なので、蝉の一生のほんの僅かな部分しか自分は見ていないのだと思います。
その中でも、今月は少し貴重なものを見たのでメモします。
先日夕方、抜け殻にしては漆黒の目をしているセミが庭のヤブランの葉に掴まっているのを見つけました。脱皮前のセミです。殆ど動かずに居ましたが、しばらく観察していると葉を行ったり来たりし始め、少し時間を置いて見に行ってみると脱皮を始めています。頭が少し出てきており、脚をしきりにもぞもぞさせています。しかしそこで暗くなってしまい、あかりを照らして見るのも悪いので、明日の朝に抜け殻があるはずだからそれを見ようと観察をやめました。
すると夜中に激しい雨の音。あの蝉は大丈夫だろうかと心配になるも、自然の出来事には手出し不要と思い、起きて見に行くことはしませんでした。脱皮の最中、もしくは脱皮したばかりで翅を乾かしているとしたらこの雨では・・・と不安なまま、眠りにつきました。
翌朝その辺りを見てみると、葉から1mほど下の側溝に、抜け殻と蝉が並んで横たわっているのを見つけました。やはり強雨にやられてしまったのでしょうか。頭上の樹では蝉が大合唱しています。当たり前の自然の風景はいつも、実に容赦の無いものを含んでいます。
骸となった蝉の頭上で大合唱している蝉は、多くの死んだ蝉を含む種の代表として鳴いている。蝉だけではなく、うちの鉢で飼っているメダカも、目にしている全ての生き物が、生きながらえなかったものを代表している。自分だってそうなのです。どうしても八月はそう考える。
生きたくても生きられなかった人達の分も、生きていれば良いこともあるなどと信じられなくなった人達の分も、私たちは生きている。だからと言って日々気負って生きる必要はないのだろうし、とてもじゃないがそんな立派になど生きていない。
飛べなかった蝉を見て、広島忌の日の朝から考え込むことになりました。私は戦後30年以上経ってから生まれていますが、それでも八月の蝉の声を完全に晴々とした気持ちで聞くことは、大人になってからは出来なくなりました。
広島・長崎のあれだけの犠牲のうえに今日の自分の安穏な暮らしが乗っかっていると思うと・・世界のことを考えても不安は増すばかりです。もう、自分が馴染みたい世界ではなくなって来ている実感も。
そもそも私は悪人すぎて、もう出家するしか無いのではないかと思うこともよくあります。(悪人だから出家するという考えは必ずしも正しく無いとは思うのですが)自分は多分、出家する代わりに自然をじっくり見たり版画を彫ったりしているのでしょう。
側溝に横たわっている蝉を拾ってみると、翅脈(羽根のすじ)が薄緑色でとても美しかった。天才的な細工師をもってしても、これと同じものを作ることは出来ないと思います。
手のひらに収まった蝉を見て、せめて一度ぐらい飛んで欲しいと、近くのスダジイとタブノキの巨木のほうに向かって力をこめて投げました。私の肩では数メートルしか飛ばせなかった。つくづく、申し訳ない。
現実世界は本当に容赦ないし、幸と不幸がないまぜに成り立っている。
盛大に鳴く蝉が沢山いる樹とその下に横たわる蝉の骸を見て思い出した文章・・故伊集院静氏の「例えば信号待ちなんかで、大事な人を亡くしたばかりの人間と、幸せの絶頂の人間が隣り合って立つこともあるだろう。だから、大人ははしゃぐな。」というもの。
珍しい花や昆虫を見つけてついはしゃぐこともありますが、基本的には自然をじっくり観察していると次第にはしゃぐという行動から遠ざかるため、自然観察は大人になる方法の一つなのかもしれません。
もう一つ、今読んでいる「ヒロシマ・ナガサキ二重被曝」という本に書いてあったこともメモしておきます。「戦争は人間の心の中で起こるものだ。」というヨハネ・パウロ2世の長崎訪問時のお言葉をひいて、著者の山口疆(※)氏が
「人は自分の中で決着すべき葛藤を、他人への支配や富の独占といった違う欲望に置き換え、自分自身の心を見つめることを怠っていることが多いのだと思う。」
と書いています。
この「自分の中で決着すべき葛藤」の正体を知ることや「自分自身の心を見つめる」ということに自然観察は大きく手を貸すと私は信じて止みません。
原爆投下時、蝉の声も一瞬でやんだのです。
(※山口疆氏のお名前の「つとむ」は正しくは弓偏なのですが出て来ず「疆」で打っています。)


あやこちゃんの文章も考え方もとても凄いと思って、こっそり文章楽しみにしてます。 知らない言葉もいつも勉強になる!ありがとう是非続けてね、お願いします、
読んでくれてありがとう! ほとんど誰にも読まれてない想定で書いてるので、嬉しい♡ 自然観察は絵の基本でもあるもんね。